明道館ネットワーク(第2回)出演者紹介

(2002/7/7 更新)

 斎藤成也さん

(昭和50年卒業)


[略 歴]
1957年1月 福井県 鯖江市に生まれる

1975年3月 福井県立藤島高等学校 卒業

1979年3月 東京大学理学部生物学科 卒業

1981年3月 東京大学 理学修士

1986年9月 テキサス大学ヒューストン校 Ph.D.

1989年2月 東京大学理学部 生物学科人類学教室 助手

1991年1月 国立遺伝学研究所  進化遺伝研究部門 助教授

2002年3月 国立遺伝学研究所  集団遺伝研究部門 教授 {現職}

[メッセージ]
 サン・テジュグペリの「星の王子様」の中に、「大人は昔はみんな子供だったんだ よ」という一節があります。それを読んだ中学生のころ、まわりの大人の姿を見て、なんとなく納得がゆきました。今ではひとりの大人として、まったくそのとおりだなと思います。僕の中には、幼い時の自分も、小学生、中学生、そして高校生の自分も、共存しています。というか、そのときそのときの成長過程で感じたこと、思いついたことが、深い記憶として、ずっとそのままに自分のなかに根付いているのです。たとえば、高校生のときに考えついたいろいろなアイデアは、今でも暖めています。そのひとつが、「太平洋上に浮かぶ浮遊都市」です。都市といっても、小さな浮島の集まりを考えています。ドラゴンボールZを読んだことのある人なら、「かめハウス」を思いだして下さい。あんな感じです。いずれは浮島に住んで見たいなと思っています。
 敬愛する大島弓子さんの作品に「毎日が夏休み」というタイトルのものがありますが、今の私の状況に近いものがあります。自分のやりたいことを、自分のスケジュールでやらせてもらっているので、仕事をしているという感覚はありません。研究は、いい意味での遊びなのです。ここでも、子供の時からのいろいろな物事に対する驚きの感覚、Sense of Wonder が生き続けています。詰まるところ、自分を含めてこの世の存在そのものが「神秘」なのですから。
 私は「趣味は?」と聞かれると「生きることが趣味です」と答えることにしています。でも、ごく普通の意味での趣味といえば、絵を描くことでしょうか。小学校の高学年から始まって、一貫して点描画を描いています。パリのオルセー美術館、ニューヨークのメトロポリタン美術館、シカゴ美術館、東京の近代美術館、宮崎県立美術館を訪れた時、すばらしい点描画をみるとうっとりします。もっとも、自分の絵をみてもうっとりしますが。今年(2002年)の10月に、父・原子光生と陶芸・油絵の親子展を福井新聞社の「風の森ギャラリー」で開催する予定です。興味のある方は見にいらして下さい。
HP = http://sayer.lab.nig.ac.jp/~saitou/

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>佐々木閑さん

(昭和50年卒業)

花園大学文学部国際禅学科教授
文学博士

[メッセージ]
 藤島高校時代は理科系のクラスにいて、科学者になるという夢を追っていました。大学もそのまま工学部に行き、卒業までしたのですが,そのころから,生来身体の中に眠っていた文科系的傾向が強くなり、思い切って文学部に転科し、気がついたら今ではインド仏教の研究者です。へんてこな人生ですが、理科と文科、両方の面白さを満喫できる珍しい立場にいることを大変有り難く思っています。そんな現在の私にとって、藤島時代のきりっとひきしまった受験教育は、広い視野を保っていくための貴重な土台となっています。これからも藤島が昔と変わらぬ厳しい学校であり続けることを願っています。
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舘 和夫さん

(昭和50年卒業)


勤務先: 宇宙開発事業団
所 属: 革新的情報技術開発グループ
役 職: 主任開発部員

出身地: 春江町

[略歴]
1975年 福井県立藤島高校卒

1979年 東京工業大学理学部物理学科卒

1981年 同大学大学院理工学研究科物理学専攻修士課程修了、宇宙開発事業団入社

1981-85年 人工衛星から観測された地球のデータの解析処理に従事

1986-88年 人工衛星に搭載する地球観測用センサーの研究に従事

1989-90年 米国バージニア州レストン事務所に勤務し、国際宇宙ステーション計画のNASA、欧州、カナダとの調整に従事

1990-96年 企画・予算関係の業務に従事

1996-98年 科学技術庁科学技術政策研究所に出向し、研究開発の評価の研究に従事

1998-2001年 宇宙開発事業団の事業評価関係に従事

2001年10月 革新的情報技術開発グループに異動

現在  同グループで、最新のITを用いて人工衛星を如何に効率良くかつ確実に開発するかの研究に取り組んでいる。

[メッセージ]
明新会の皆様へ
 私の勤務する宇宙開発事業団には、藤島高校の卒業生が私の他に1名、ひょっとすると若い方にあと1名くらいいるのではないかと思います。
 さて、職業がら、よく「なぜこの仕事についたのですか」、「夢は何ですか」と質問されることがあります。前者は、正直言って回答に困るんです。好きなことを職業にしていますとしか答えようがありません。後者は、以下の回答です。これを皆様へのメッセージにもしたいと思います。
 私が事業団に入った20年前は、NASAがスペースシャトル「コロンビア」の初飛行に成功し、NASAの名前は技術開発の頂点というイメージが世間に広まっていました。その頃、当の日本の宇宙センターと言えば「どこのパチンコ屋ですか」と間違われる時代です。そんな時代ですから、事業団に集まってきた人はというと、宇宙開発が好きなロケット少年や衛星少年ということになります。
 ところが、10年前に毛利さんがスペースシャトルに乗り込んだ辺りから、風向きが変わり、世の中はバブル経済の絶頂期でもあり、宇宙開発事業団の名前は広く知られるようになりました。知名度があがると言うことは、宇宙開発に対する国民の理解と支持が得られるということで大変ありがたい反面、国民は我々とは違った見方をするなあということも実感です。
 あるテレビ番組で、スペースシャトルに乗った日本人宇宙飛行士のことをまわりがあまりはやし立てるので、宇宙関係のある先生が苦笑していました。宇宙飛行士が厳しい訓練に絶える強靱な肉体と強い精神力を持っていることには誰もが敬意を表しますが、よくよく考えてみればスペースシャトルのお客さんです。例えはよくないかもしれませんが、日本人が米国製の飛行機に乗っただけです。我々がやりたいのは、日本製のロケットで、日本人を宇宙空間、あるいは月へ、火星へ運ぶことです。その意味で、夢への挑戦はまだまだ続きます。
 卒業生の中にいまだ高校生のようなことを考えている者がいるということを記憶して頂けるとありがたいことです。

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中野泰子さん

(昭和50年卒業)


[略歴]
昭和50年3月 藤島高校卒業

昭和54年3月 東京大学薬学部卒業

昭和54年4月 北里大学薬学部公衆衛生学教室助手

昭和57年4月 昭和大学薬学部生理化学教室助手

平成10年4月 国立医薬品食品衛生研究所 医薬品医療機器審査センター 審査官

平成14年1月 昭和大学薬学部医薬情報科学教室 助教授

[メッセージ]
 現代はインターネットで世界中のあらゆる情報が瞬時に検索でき、自分からの情報も瞬時に世界中に発信できるという時代になり、大変便利である反面、情報量の膨大さ、それらの質の判断や選択の難しさがあります。また、このように簡単に情報が得られることから、常に新しい情報を取り入れている必要があり、情報の量や速さに追いかけられて生活している感があります。医療に関しても、研究に関しても最新の情報をいつも勉強していなくてはいけないという現状はなかなか大変です。また、実際の研究においても、一大学の教室では資金やマンパワーの点で、有名な研究施設や製薬メーカーの世界規模の研究施設と比べると時代が違うのではないか思われるくらいの格差があります。私が、生命科学がやりたい、実験がやりたいと小学生のころに思った時の想像と比べると、実際の研究は非常に違いますし、大学時代やその10年後と現代を比べると技術や常識が非常に変わってきています。その位、今、科学の世界は急速に進歩しているということで、今後どのようになるかとても想像できませんが、自分が好きで選んだ道は辛いことや大変なことがあっても、トータルでみると、やはり、やりがいもあり、満足感もあり、楽しいです。皆さんもある程度の努力は必要ですが、限界まで無理をするようなことはせず、楽しんで人生を生きることを目標に頑張ってください!

薬学に関心のある方は以下のHPにアクセスしてみてください。
・昭和大学のHP:http://www.showa-u.ac.jp/index-fj.htm
・日本薬学会のHP:http://www.pharm.or.jp/

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吉村一男さん

(昭和50年卒業)


[略 歴]
1975年:東京大学経済学部入学
   「南北問題」に関心をもち、「開発・発展経済」のゼミナールに参加。

1979年:日本興業銀行入行
   「業を興す」という側面と「金融」という幅広いエリアにチャレンジできる
    ことが選択の理由。

1987年から3年間、シニア・エコノミストとしてニュヨーク駐在。アメリカのダイナミズムを実感。

1991年から5年間、香港駐在。アジア地域の資源開発やインフラ分野の大型プロジェクト・ファイナンスを通して「開発経済」を実践。

1996年:AIDEC(Asian Infrastructure Development Company、アジアのインフラストラクチャー開発会社)入社
   マネージング・ダイレクターとしてアジアの民活インフラ・プロジェクトへの
    投融資を展開。また投資顧問会社の経営を担う。
   シンガポールを拠点に15カ国で300以上のプロジェクトを検討し、電力、
    通信等15のプロジェクトに投融資を実施。

2000年:(株)ゼンテック・テクノロジー・ジャパン 取締役
   CFO(Chief Financial Officer、最高財務責任者)としてベンチャー企業の
    設立に参画。

2001年8月にナスダック・ジャパン市場に株式上場。
   ゼンテック社のミッションは、ユビキタス・ネットワーク社会の実現に向けた
    ソフトウェア・ソリューションの提供。
   米国(シリコンバレー)、日本(東京、大阪)、アジア(シンガポール)、
    欧州(英国、予定)とグローバル展開。

[メッセージ]
 熱狂のワールドカップは終わりました。藤島高校のグラウンドで小坂清吉監督(現丸岡高校監督)の指導を受けた嘗てのサッカー少年(?)は、何度も震えるような感動を覚えました。日本も韓国も輝いていました。
 「開かれた市場で切磋琢磨し、お互いを高めあうこと」「弱点をカバーし、強みを生かすこと」「やらない後悔より、やった後悔」そして「世界の中の日本、アジアの中の日本」
 チャンスは必ず何度か来ます。焦らず、恐れず、怯まず、広く世界にチャレンジしてください。


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